大判例

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前橋地方裁判所 昭和47年(わ)177号 判決

主文

被告人を懲役一七年に処する。

未決勾留日数中六〇〇日を右刑に算入する。

押収してある運転免許証一通(昭和四七年押六三号の一)の偽造部分を没収する。

理由

(認定事実)

第一本件犯行に至るまでの経緯

(一)  被告人の身上など

(1)(被告人の生い立ち) 被告人は、昭和二二年八月二一日、父前沢藤一郎・母房子の長男として、東京都江東区深川住吉町一丁目九番地の一で生まれたがやや不幸な生立ちで、幼少のころ、両親は別居の後離婚するに至つたため、被告人はどちらかといえば弟妹に愛情を傾ける父藤一郎の下で、小・中学校に通い、続いて昭和三八年東京都立蔵前工業高等学校機械科に入学し、鮮魚商を営む叔母の下でアルバイトをして学資をえつつ昭和四一年三月同校を卒業した。高校前半期迄の被告人は、暗い性格の生徒という印象を周囲に与えていたが、高校後半期に入るころから、漸次明朗となり、積極的に行動しスポーツなどにも興味を示すようになつた。しかしこの間の被告人には未だ政治あるいは社会問題に際立つた関心を示した様子はみられず平凡な学生生活を送つていた。

(2)(被告人の左翼運動への傾斜) 昭和四一年四月、被告人は右高等学校を卒業すると同時に東京都大田区矢口にある三国工業株式会社に入社し、上司からもかなり高い評価を受ける真摯な勤務態度を示し、同僚ともよく和合し、昭和四三年一〇月にたまたま同社労働組合青年婦人部副部長に選出された。この頃より被告人は、労働問題に強い関心をいだくようになつたが、組合活動に打込むにつれてその活動の限界を感じ労働組合をもつて、資本家と労働者の緩衝地帯のような役割しか果しえないものと考えるようになり、労資関係をいかにとらえるべきか、真剣に模索し始めるようになつたのである。そこに相談相手としてあらわれたのが同年七月前記三国工業に入社してきた東京水産大学学生坂口弘(昭和二一年一一月一二日生)であつた。坂口弘は後記日本共産党革命左派神奈川県委員会の指導者川島豪の影響を受け、右大学在学中から政治活動に加わつており、当時も右委員会のメンバーであつたのであるが、被告人は坂口を誠実な人柄と社会情勢に対する的確な見とおしをもつ人物と考え、その説くところに全幅の信頼をよせ、誘われるままにデモ・討論会・政治集会に参加などした後、昭和四四年四月右委員会の下部組織である京浜地区安保粉砕共闘会議(以下京浜安保共闘という)の結成と共に、その組織員となつたものである。

(二)  いわゆる連合赤軍結成に至るまでの経過

(1)(いわゆる連合赤軍の母胎) その頃から左翼的過激集団に対する警察の警戒は厳重を加え被告人は、前記のとおり京浜安保共闘の組織員となつた後、その上部組織である日本共産党革命左派神奈川県委員会(以下革命左派という)の指令に従つて昭和四六年二月ころより非公然活動(俗にいう地下活動)に入り、都市アジトあるいは山岳アジトでの生活を続け、最後に世上連合赤軍と呼ばれる組織に参加するに至るのであるが、右組織は、森恒夫を指導者とする共産主義者同盟赤軍派(以下赤軍派という)と、永田洋子・坂口弘らを幹部とする革命左派が合体して結成されたものである。

(2)(革命左派の成立) 昭和四〇年ころまでの間、政府の対韓政策について反対闘争を続けていた新左翼系の活動家のうち、マルクス・レーニン主義者同盟(M・L同盟)ないしはマルクス主義戦線派のいわゆるブント系などに属していた川島豪、坂口弘、永田洋子らは、機関誌「警鐘」を発行しつつ、政治活動を単なる政府の政策に反対するという運動からブロレタリアート独裁を目指す権力闘争に昂揚させるべきことを説き、日本共産党代々木派より除名された者達と、日本共産党左派神奈川県委員会を結成し、活動を続けていた。しかし、右組織は、革命戦術をめぐつてほどなく内部分裂を生じ、川島、坂口・永田らは、理論のみでは不充分であり、むしろ実践的な革命運動を中心にすえるべきだとして、日本共産党系の人々と別れ、昭和四四年四月日本共産党革命左派神奈川県委員会、即ち革命左派を結成し、その下部大衆組織として京浜地区安保粉砕共闘会議、即ち京浜安保共闘を組織し、行動重視の傾向を漸次強めつつ、同年九月の羽田空港におけるゲリラ的な訪米等阻止武装闘争などを展開していつた。同年一二月革命左派は、川島豪が逮捕されるに及んで、その指導者を欠く事態となつたのであるが、獄中の川島の指示を受けて具体的な活動方針を決める役割を担当していた永田洋子、そして坂口弘が急速に力を伸ばし、川島の逮捕前から組織されていた人民解放遊撃隊を指揮し、政治ゲリラ活動を遂行した。しかし昭和四五年一一月ころから、永田・坂口らは川島豪の説く革命理論は、政治的なスローガンを唱えてゲリラを行なうことによつて、人民の革命意識をたかめ、人民の一斉蜂起を促さんとするにすぎないものとみなし、革命に主体的・積極的にとり組むものではなく、一種の革命待望論で消極的にすぎるものと批判を加え始め、革命は優秀な指導能力をもつた革命家が、戦士として武器を駆使して権力機関に直接打撃を与えるゲリラ活動を永続的に遂行するところところから始まるという、後に山岳アジトにおける中心理論となつた「銃を軸とするせん滅戦」理論の萠芽といえる考えをうち出し、これにそつて武器入手のため昭和四六年二月の真岡猟銃強奪事件を、既に昭和四五年一二月ころ人民解放遊撃隊から人民革命軍と改称されていた組織を指揮して遂行したのである。

(3)(山岳アジトの設置と被告人の動向) 革命左派は前記猟銃強奪事件後、警察の厳しい追及を受けることになり、これを避けるため、永田洋子・坂口弘は、同派組織員である寺岡恒一・吉野雄邦・雪野健作・瀬木政児と共に北海道札幌方面に逃亡し、都内近辺には栗橋・越谷・我孫子の三筒所にアジトを設け、主としてそれまで合法的な公然活動に従事し武装闘争など行なつておらず従つて指名手配など受けるおそれのない者を、置き、相互に連絡をとつて活動を続けようとした。被告人は、前記のとおり昭和四四年四月京浜安保共闘に加入したが、いまだ革命左派の正式党員でなく、昭和四五年一一月の土浦における同派拡大党会議にも党員候補として出席したにとどまつており、公然活動に従事していたので、昭和四六年二月に至つて永田の指令により動務先の三国工業株式会社を退職し、前掲人民革命軍の隊員となつて、いわゆる地下活動を行なうようになつたものの、これまで非合法活動には手をつけなかつたため、前示栗橋アジトに入り、永田らとの連絡係を担当していた。永田らは強奪した銃をもつて闘争を遂行するため、軍事訓練を行なう必要を感じていたが、警察の捜索の手を逃れつつ、これを行なうことは困難であつたところから一時は中国に渡つて訓練を受けることを真剣に検討したほどであつた。ところが警察の追及がいよいよきびしくなり、そのため都内近辺のアジトにも捜索の手が及ぶことをおそれて、永田、坂口・寺岡・吉野・雪野・瀬木・被告人のほか都内近辺のアジトにいた杉崎ミサ子・目黒滋子・早岐やす子・向山茂徳・金子みちよ・大槻節子・加藤能敬の一四名は、昭和四六年四月二五日ころ、東京都西多摩郡奥多摩町留浦きのこ岩一、六八八番地およびその附近の山岳にアジトとしてベースキャンプ(以下小袖ベースという)を設け入山することにしたのであるが、同所のような、人目につかない山中でならば、国内においても、警察の目にとまることなく軍事訓練を含めた革命運動をなしうることを発見し、爾後各地の山岳に転々とベースを設けて移動するという生活を続けていくことになつたものである。

(4)(赤軍派の動き) 赤軍派は共産主義者同盟より分派結成されたものであつて、塩見孝也が指導者となつて、日米両国政権を帝国主義の温床と決めつけ、二者をいずれも正面の敵としてその打倒を目指し活動を続けてきたが、同人が逮捕されたことなどから、森恒夫がこれに替わり、山田孝・坂東国男らがこれを捕佐し、革命のための軍事組織としてつくられた赤軍派中央軍の構成員である植垣康博・青砥幹夫・山崎順・行方正時・進藤隆三郎らを指揮して爆弾闘争などを行なつていた。しかし同派も昭和四六年六月に東京都内で爆弾闘争、そのほかM作戦と称する資金獲得のための強盗事件を行なつたあとの同年一一月、それまで東京都内あるいは長野県、山梨県の市街中にあつたアジトを山岳に移すことにし、軍事訓練を行ないつつ、武器奪取を目的とする交番襲撃を企図したりしていた。

(5)(革命左派と赤軍派の接近から合体へ) 赤軍派は、革命左派と似かよつた権力機関への直接攻撃という戦術をとつていたところから、昭和四五年一二月革命左派党員柴野春彦らにより遂行された東京都板橋区の下赤塚交番襲撃事件をたかく評価して、革命左派と接触し始め、昭和四六年一月には両派合同の集会をもつに至つた。その後赤軍派は活動資金を、革命左派は銃等の武器を、相互に提供し合うなどして、両派の緊密の度合いは深まつていつた。昭和四六年八月、両派は党派自体の政治路線は相違していることは認めつつも、武装闘争面では連合して行動していくことが可能であると考え、とりあえず軍事面で協力体制をとることにし、統一赤軍(のちに連合赤軍と改称)の成立を宜言し、昭和四六年一二月上旬には、当時赤軍派のアジトのあつた山梨県内身延の新倉山(以下新倉ベースという)に、革命左派の永田洋子・坂口弘・寺岡恒一・吉野雄邦・被告人・岩田平治・大槻節子・杉崎ミサ子・金子みちよの九名が赴き、赤軍派の森恒夫・坂東国男・山田孝・植垣康博・青砥幹夫・山崎順・行方正時・進藤隆三郎・遠山美枝子の九名と合同軍事訓練を行なうまでになつた。

このころまで両派は、闘争方針にもかなりの相違点があることを相互に認識しており、両派の結びつきは武装闘争面にとどまつており、右合同訓練の際の討論でも、双方の歩みよりはあつたものの、両派の合同という線にはまだかなりの距離があるものとされていたのであるが、前同月下旬になつて赤軍派の森・坂東・山田ら幹部が当時の革命左派の山岳アジトである群馬県北群馬郡伊香保町大字湯中子字蛇ケ獄九九一番地の二群馬県榛名県有林伊香保経営区四林班一二小班内のベース(以下榛名山ベースという)を訪れ、いずれも革命には真摯な革命家による、権力に対する直接的な武装闘争が不可欠であるとする基盤に立ちつつ、討論を進めていくうち、赤軍派は従前の爆弾・ナイフ・銃等を同列に置く武装闘争を、革命左派の説く、銃を軸とするせん滅戦に切り替えることに、革命左派は従前川島などの唱えていた反米愛国路線を捨て去り、赤軍派と同じく日米帝国主義を闘う対象とすることになつて、急速に合体の話がまとまり、森は新倉ベースに残つていた植垣・青砥・山崎・行方・遠山を呼び寄せたうえ、昭和四七年一月三日ころ、榛名山ベースにおいて両派は合体して新党派(これが世上連合赤軍と呼ばれることになる)を結成することになり、その幹部として、森恒夫・永田洋子・坂口弘・坂東国男・寺岡恒一・山田孝・吉野雄邦の七名が中央委員(以下C・Cという)となつて、組織員全員の承認をうけ就任し、被告人も、赤軍派の植垣康博・青砥幹夫・山崎順・行方正時、革命左派の岩田平治・金子みちよ・杉崎ミサ子・大槻節子・寺林真喜江・伊藤和子・中村愛子・山本順一・同保子・加藤倫教・同元久とともに、右新党派の兵士としてこれに参加した。

(三)  新党派の活動方針と暴力的総括の開始

(1)(新党派の活動方針) 前記したとおり革命左派は、それまでの指導者であつた川島豪の理論を積極性を欠く革命待望論であると感じ始め、昭和四五年一一月ころよりこれに反撥し始めていたのであるが、昭和四六年六月丹波における拡大党大会において、川島路線より分岐し、被告人の献策などもあつたが、主として永田洋子の提唱によつて、革命は厳しく、かつ、ねばり強く、時には残酷に闘いとられなければならないものであるから、人の要素が第一であり、革命のため一命を捧げて悔いず、いかなる困難な状況にあつても挫折せず、権力に逮捕されるようなことがあつても完全に黙秘を通して組織の打撃を最少限に防ぎ、革命運動には常に率先して参加し、日和見的立場を絶対にとらない、真摯で優秀な共産主義者が、軍隊的規律をもつた革命組織に集結し、永続的な闘いが主体的に行ないうる武器、反面常に敵と直面して争うことになるため失敗は自己の死・組織への打撃につながる自己にも厳しい武器である銃をとつて直接権力機関に打撃を与える武装ゲリラ闘争を拡大展開していき、遂に敵権力を打倒し、プロレタリアート独裁を実現するということにのみ、革命実現の途はあるものとする、いわゆる銃を軸とするせん滅戦なる革命路線を樹立した。新党派は、その名称・綱領とも決定されるに至らなかつたのであるが右の理論を赤軍派においても受け入れ、とくに軍隊的規律をもつた革命組織の結成、建党建軍の重要性を認めたところから、革命左派と赤軍派を母胎として、右革命組織たらしめんとして誕生したものである。

従つて新党派構成員は、幹部・兵士とも、いずれも真摯な共産主義者で、かつ優秀な革命戦士でなくてはならず、自己の共産主義化への努力は不断に怠ることなく続けるべきであり、とくに女性は、これまで党派内で特定の関係をもつ男性にひかれて任務を放棄したり、あるいは、男性にいらざる負担をかけることがあり、そのために男性が警察に逮捕されたり、闘争が予定どおり遂行できなくなつたりすることが往々あつたことから、意識変革が強く求められ、女の革命家から革命家の女に変らなければならないと説かれていた。

(2)(暴力的総括への転落) 新党派はかような目標を掲げて結成されたのであるが、その幹部であるC・Cとくに森・永田は、当時の政治情勢を米国帝国主義と手を結んだ日本帝国主義が、その反動化を一段と強めた段階にあるものと受取り、革命を目指し、武装ゲリラ闘争を早急に開始しなければ、反動化はますます進み、革命は遠くばかりであるとして、武装ゲリラ闘争の早急な開始を望んでいた。従つて、構成員の共産主義化は、構成員自らあるいは他よりする、これまでの活動に際しての意識、その問題点の指摘と、これを新党派内における革命運動のなかでどのように克服していくか、等々の問題について総括という名の下での自己批判・相互批判、という従前とかわらぬ方式を踏んでなされるものではあるけれども、従前の川島路線のように人の要素を軽視していた場合と異なり、真撃な革命戦士の存在が闘争のためどうしても必要であるから、これまでとは質的に異なる一挙的・徹底的な共産主義化のための総括が、しかも迅速になされなければならないということになつてきたのである。加えて革命左派では、前記小袖ベースに入山以来組織より脱落・逃亡者がでること多く、その度ごとに警察に情報がもたらされることをおそれ、ベースを移動させ、山梨県(山梨県東山梨郡三富村字広瀬一、八二〇番地・以下塩山ベースという)、神奈川県(神奈川県足柄上郡山北町中川無番地大滝沢支流マスキ嵐沢・以下丹沢ベースという)、静岡県(静岡市井川田代地内高瀬島地先、以下井川ベースという)の山中を転々としたのち、昭和四六年一一月下旬榛名山ベースに入るという事情にあつたうえ、その頃、交番を襲撃して権力機関に打撃を与えようとし、各地の交番を調査してまわつていたのであるが、この計画が事前に警察に洩れ、失敗に帰する可能性ができたものとして中止せざるをえなくなるなどの事態となつたことも加えて、かようなことから、脱落者のため組織が多大の打撃をうけるものと考え、永田洋子は、早急なゲリラ闘争の開始が望まれる時期に、組織が後退することになる脱落者の逃亡を放任することは、組織の崩壊にもつながることでもあり、新党派こそ日本武力革命を達成する唯一の中心的勢力であつて、その崩壊は該革命自体の挫折にほかなならないので、新党派の組織防禦のためにも、許されるものでないと意識するに至つていた。

ところが革命左派には川島豪の、赤軍派には塩見孝也の、それぞれ説いた理論が大きな影響力をもつて浸透しており、構成員の中には、銃を軸とするせん滅戦という理論を、森・永田らが考えるほど従前の理論から大きな飛躍を遂げたもの、従つて構成員としてもこれまでとは心構えをあらたに共産主義化に努力しなければならない段階に立至つたとまでは考えていない者もあり、森・永田らの度重なる言明・指導がなされたにもかかわらず、なお右のような意識のずれが存することは否み難かつたのであるが、かような森・永田の側よりすると意識のおくれている者の典型として、永田は、外見においてもなお化粧をして身を飾り立て女の媚を売り、いまだ女の革命家以前の段階にとどまり、軍事訓練にでても支障をいい立てて真剣にとり組もうとしない遠山美枝子をまず批判の対象とし、既に前記合同軍事訓練の際、同人を革命左派の指導下におくよう申し出たのであるが、その際、永田は遠山美枝子が共産主義化をなしとげるまで山岳ベースより離脱することを許さないよう取扱うべきこと、ならびに右共産主義化は短期間のうちになされなければならないこともあわせて主張したのである。森は、既にこれより先、革命左派が向山茂徳と早岐やす子の両名を、同人らが山岳ベースより脱走したあと権力機関と接触したり、あるいはこれに組織の動きをさとられるような行動に及んで組織の敵となり終つたとの理由でもつて殺害していることを知つており、これより推して、遠山が山からおりることができない状態のままで、短期間に共産主義化をとげられなかつた場合、同人は結局死に至ることになるおそれがあるものと考えたのであるが、永田の指摘するように遠山には重大な問題点があることは認めざるをえないし、新党派ではこれまでの赤軍派より質的に向上した組織員をもたなければならない要請からも永田の批判を容れざるを得ないものとし、各構成員は、文字どおり命がけの努力を重ねて革命戦士とならねばならず、右のような強い手段をもつて、遠山ほかの組織員をして、革命戦士化の途は厳しいものであることを覚らせることはむしろ同志としてなすべき援助でもあると考え、遠山に命がけの努力を求めることは肯認したうえ、革命戦士化しえない者は敗北者なのであり、革命に益するところなく、かえつて組織の動きを権力にさとられる行動にでるものであるから、組織の防禦のためにはこれらの者をベースから離脱させるべきでなく、革命戦士となることは当人にとつても幸せなはずであるから、むしろこの際は、一命をかける努力を求めてでも革命戦士化・共産主義化への助力をしてやり、早急に始められるべきゲリラ闘争に参加できるようつとめてやるのが真の同志のとるべき途であり、そのため命をおとす者があつても、それは革命の中核となるべき組織を保持していくためには許されることであるとの意を固めるに至つていたのである。他方永田も、また赤軍派の構成員を批判した以上、革命左派系の構成員におくれた者の存する場合、これを放置することはできなくなり、川島路線を廃棄して新路線を歩むこととしたところから、従前の川島指導下時代よりも党の力をより向上したものにたかめたいとの意識にかられて、構成員のより迅速完全な革命戦士化・共産主義化を計らねばならない立場に立ち至つたのである。

このように森・永田が、異常な決意を固めていたところに生じたのが、加藤能敬による幹部批判であつた。昭和四六年一二月中旬革命左派系の京谷健司らが、前記下赤塚交番事件で死亡した柴野春彦の追悼集会を催そうとしたのであるが、永田洋子らは右集会をもつて、単に同志の死をいたむという意義しか帯びさせておらず、川島路線より一歩も出ていないものとして、この開催を阻止しようとしたのである。加藤能敬は昭和四六年六月ころ、既に山岳アジトに入つていたのであるが、同年一一月二一日東京都府中市にあるアジトに立寄つた際逮捕され、釈放後、右追悼集会に参加して、同年一二月二一日榛名山ベースに戻つて、右集会の意義を高く評価し、これを批判する幹部が誤つている旨の意見を述べた。森・永田はこれに対し、右集会をもつて、銃を軸としたせん滅線の宣言をなすべき集会とするのが正当な開催方法であつた旨反批判し、加藤能敬に対し新党派結成の目的を力説したが、同人はその態度を変えなかつた。ここに森・永田は他の、後にC・Cとなつた者達とともになお川島理論にとらわれ、真の共産主義化を完遂しようとしていない者として、まず加藤能敬に対して厳しく総括を求めることになつたのである。

第二罪となるべき本件犯行事実

かくて被告人は、

(一)  (加藤能敬関係)

(1) 小袖ベース設置とともに山岳アジト入りしていた加藤能敬(昭和二四年一〇月一日生)に対し、昭和四六年一二月二一日ころより榛名山ベースにおいて、幹部である永田などより追及が始まり、銃によるせん滅戦の意義をとらえきれず、幹部の指導に対してもこれを理解しようとする努力を怠たり、柴野春彦追悼集会を単なる集会とおわらせてしまうような京谷健司らの誤りに気付かずこれを弁護しようとしており、革命待望論にすぎない川島理論の誤りにもいまだ気付いておらず、革命を積極的に闘いとろうとする態度がみられないようなところがあること、さきに逮捕された際不利な局面を突破し逮捕を免れることをまず目指すべきであるのにこれを怠つたこと、あるいは逮捕された時完全に黙秘(いわゆる完黙)し通したことを誇らしげに語つたが、黙秘それ自体だけでは闘争といえず、逮捕された失敗を反省しなければならないのに、これをやろうとしないこと、などの事由で総括が求められたのであるが、それにもかかわらず加藤能敬はこれを真面目に受けとめ、これら諸問題を自らの思考と努力で解決しようとする意欲を示さず、あまつさえ作業中小嶋和子と接吻するなど不謹慎な行動にでたことから、遂に森・永田より、加藤能敬をして、真摯な態度で総括する気構えをつくらせるため、同人に殴打などの暴行を加ようとの提案がなされ、坂口弘・坂東国男・寺岡恒一・山田孝・吉野雅邦らがこれに同意し、前同月二七日未明、森・坂口・坂東・寺岡・山田・吉野らが加藤能敬の顔面を手拳でもつて殴打し始めるのを認めるや、被告人は一瞬かかる暴行を与えることによつて森らのいうように真摯な総括を求めうるものか疑問を感じたものの、右森らの真剣な態度に引き込まれ、岩田平治・加藤倫教・同元久・尾崎充男・山本順一・金子みちよ・伊藤和子・さらに永田に促されて加わつてきた小嶋和子らと共に、永田に呼寄せられるままに、榛名山ベース内の右暴行現場に至り、加藤能敬が、革命のためには肉親の情も否定すべきであるとの永田の指示によつて倫教あるいは元久らにまで殴打されながらその告白するところを聞くうちに、加藤能敬がさきに完黙したと誇つていたことが真実でないことを感じ始めるや、同人に対する憤怒の念が生じ、ここに右の者らと意思相通じ、自らも加藤能敬を手拳をもつて数十回に亘り殴打し、そのあと森の指示で坂東・寺岡・吉野が加藤能敬を座位後手に緊縛したままベース内で始めた全体集会で森・吉野・寺岡らが力説した、真の共産主義者は必要な暴力を肯定するものであつて加藤能敬の問題点を指摘してこれを殴打することは総括を援助する者にとつてもかかる誤りを犯さないための試練となるとの意見を容認し、暴力的総括にも十分な意義があることを肯定するようになり、その後も加藤能敬が前示総括事由あるいは女性問題などを克服し切るまで解縛しないことに賛同し、その決意は、森より岩田とともにベース外で、間もなく後記尾崎に対する総括がはじまり同人の方が先に死亡したことをきかされ、かつ、森・永田らが死者が現実にでたあとも、これらを敗北者ときめつけ、死者のでることを承知のうえで、あえて暴力的総括をなお続けていく意向をもつていることを察知し、また、後記するようにさらに同人らに続いて総括にかけられこれまた先に死亡してしまつた進藤に総括を求めた際の森の腹部を集中して殴打せよとの指示を聞き、同人らは場合によつては暴力的総括によつて被総括者が死亡するに至ることも考慮に入れながら、なお暴力的総括を敢行する意図を固めていることを悟りつつ、被告人としても、自ら銃によるせん滅戦に向つて党組織が発動し、武装ゲリラとして銃をとつて闘う日の到来を待ち望んでいたところから、組織員の短期革命戦士化はこの到来を早めるものであり、暴力的援助はそのため組織全体にとつて欠くことのできないものであつていずれ革命戦で失う命なら、その前段階での共産主義化に挫折して死亡するとしても、革命という大義の前には許されるものとの覚悟を固め、前示尾崎の死亡後森・永田より革命戦士化しえない者は敗北者であり、自ら死を招いた者であると説明され、総括し切れない者には死もまたやむをえない結果といえるものと思い定めるに至つた前記構成員と相互にその意思を通じたうえ、折柄ベース付近の酷寒の山中に、食事も満足に与えず緊縛したまま放置すれば、体力の消耗を来し、容易に凍死する状況にあることを、自己の装備と加藤能敬の着衣などからも悟りつつ、一度僅かの時間解縛したものの、その余はあえてそのまま、ベース付近の立木あるいはベース床下の柱、ベース内の柱に、立位後手で緊縛し続け、その間食事を殆んど与えず、苦痛に耐えかねて昭和四七年一月四日逃走の意図をもつたことを告白したため、さらに森・坂口・坂東・寺岡・吉野らより殴打されるなどした挙句、遂に同日正午ころ加藤能敬を同ベース内で凍死するに至らしめて、共同してこれを殺害し、

(2) 森・永田・坂口・坂東・寺岡・山田・吉野・岩田・青砥幹夫・山本保子らと相謀り昭和四七年一月五日夜ころ、榛名山ベース付近において、右加藤の死体が警察に発見され、被害者の身元および犯行が発覚し、ひいては新党派の組織が明るみにでて構成員らが逮捕されるに至ることをおそれ、右死体を遺棄しようと企て、その死体から衣服をはぎとり裸にしたうえ、手製担架に乗せて、これを群馬県群馬郡榛名町大字榛名山甲八四五番地先道路まで、さらに自動車でこれを、同郡倉渕村大字水沼字中尾一二塚二、八五四番地の一先道路まで運び、翌六日未明ころ同所付近の杉林内の土中にこれを埋没し、もつて共同して死体を遺棄し、

(二)  (小嶋和子関係)

(1) 塩山ベースが設置されていたころ、山岳アジト入りした小嶋和子(昭和二四年一一月一二日生)に対して、昭和四六年一二月二六日ころより、前記加藤能敬の総括とほぼ同時に榛名山ベースにおいて森・永田ら指導部より追及が始まり、自己顕示欲が強く、しばしば突飛な言動をしてでも周囲の目を集めようとし、これを矯すよう注意されているのにその努力をせず革命戦士となるべき共産主義化の素地づくりさえしていないこと、革命家の女となるべきことを全く理解せず、対男性問題では常に嫉妬心を示すことなど、要するにブルジョワ意識が払拭し切れていないとの事由で総括が求められたのであるが、それにもかかわらず、小嶋はこれを真面目に受けとめ、解決しようとする意欲を示さなかつたことから、森・永田の両名より小嶋をして真摯な態度で総括する気構をつくらせるために、同人に殴打などの暴行を加えようとの提案がなされ、坂口・坂東・寺岡・山田・吉野らがこれに同意し、前同月二七日未明ころ、坂口・坂東らが小嶋の顔面を手拳をもつて、前記加藤能敬に対する暴行についで、殴打し始めるのを認めるや、被告人は前同様森らの真剣な態度に引き込まれて、岩田・加藤倫教・同元久・尾崎・山本順一・同保子・金子・伊藤らと共に、永田に呼寄せられるまま、榛名山ベース内の右暴行現場に近寄り、そのあと小嶋が女性である金子・山本保子らにより殴打されるのを、みてこれに加わりそのあと前記のとおり開催された全体集会で、森・吉野・寺岡らの意見に従つて、右暴力的総括を、自己の変革にとつても意義のあるものとして肯定するようになり、その後も小嶋にベース内に正座して真剣な態度で右欠点を克服するよう総括を求め、小嶋の右総括態度になお不真面目な点があると認めた前同月二八日、遂に同人を永田の指示のもとに、同様その意思を通じた寺林真喜江・杉崎ミサ子・大槻節子そして金子の手で座位後手に緊縛し、さらに翌二九日には逆海老型に緊縛するまでに至つたが、この緊縛を、後記尾崎の死亡を聞かされた同月三一日夜にも、その頃また開始された後記進藤に対する総括の際森から腹部を殴打するようにとの命令を聞き、同人らは場合によつては被総括者が死亡するに至ることも知りながら、なおあえて革命戦士化の獲得を目指していることを悟りつつ、右尾崎の死亡後森・永田より革命戦士化しえない者は敗北者であり自ら死を招いた者であるとの説明を受け、被総括者が、死に至ることもやむをえないところと思い定めた前示その余の構成員と相互に意思を通じたうえ、あえて昭和四七年一月一日以降も、解縛することを考慮せず、被告人としては前項記載のとおり、革命に向つて武装ゲリラ闘争が開始され、自らその一員として立つ日を待望する強い意向にかられ、小嶋の自己顕示欲の強い性格を、革命家として失格であるとなし、折柄ベース付近の酷寒のうちに、食事も満足に与えず緊縛したまま放置すれば体力の消耗を来し、容易に凍死する状況にあることを悟りつつ、あえてそのままベース付近の立木あるいはベース床下に立位後手で緊縛し続け、その間食事を殆んど与えず、同人をして同年一月一日夜前同ベース床下付近で凍死するに至らしめて、共同してこれを殺害し、

(2)(イ) 森・永田・坂口・寺岡・坂東・吉野・山田・岩田・植垣康博・青砥・杉崎・伊藤・山崎順・寺林・金子・大槻・中村愛子・加藤倫教・同元久・山本順一・同保子・行方正時・遠山美枝子らと相謀り、昭和四七年一月三日未明ころ、榛名山ベース付近において、前同様の企図のもとに右小嶋の死体から衣服をはぎ取り裸にして、これを同ベース東南方約九二メートルの雑木林内の土中に埋没し、もつて共同して死体を遺棄し、

(ロ) 森・永田・坂口・坂東・寺岡・山田・吉野・岩田・青砥・山本保子らと相謀り、前同月五日夜ころ、右雑木林において、前同様の企図のもとに右小嶋の死体をさらに別の場所に遺棄するため、土中からその死体を取り出したうえ、手製の担架に乗せてこれを群馬県群馬郡榛名町大字榛名山甲八四五番地先道路まで、さらに自動車でこれを同郡倉渕村大字水沼字中尾一二塚二、八五四番地の一先道路まで運び、翌六日未明ころ、同所付近の杉林内の土中にこれを埋没し、もつて共同して死体を遺棄し、

(三)  (尾崎充男関係)

(1) 丹沢ベースが設置されていたころ山岳アジト入りした尾崎充男(昭和二五年二月二七日生)に対し、昭和四六年一二月二二日ころ、榛名山ベースにおいて、永田などからその闘争活動について追及が始まり、都内で行動中、警察に尾行された際まず尾行をまくことを考えるべきであるのに、自分はおろか組織員全員が逮捕されるという悲観的な事態をまず想定してしまい、銃等武器の所在場所を分派組織の一員とみている京谷健司に明かし後事を託すなどということをしたのは積極的に闘うという意欲をもたない敗北主義であるとして総括が求められたのであるが、さらに同月二七日ころの榛名山ベースに居合わせた者全員による討論集会で、岩田などから指摘され、昭和四五年一二月の下赤塚交番事件の際、恐怖心から脱落したことを明らかにされるに及んで、その消極性は許し難いことと受取られたところから、森によつて正座して総括することを求められたが、尾崎はなお積極的な姿勢を示さなかつたことから、昭和四七年一二月二九日ころ、森・永田・坂口・山田の四名は尾崎の恐怖心を取り除き、勇気をもたせるため、尾崎に下赤塚交番事件の柴野になつたつもりで、警察官とみたてた坂口と決闘するよう命じ、尾崎もこれを了承し、格闘を行なつたものの、いざ始めると後退ばかりして積極的な闘いをせず、しかもこれが終ると、総括が終つたかのように受取り、ベース内で寝たまま、他の者にチリ紙をとつてくれるよう依頼するなど甘えのみられたところから、遂に森・永田・坂口・吉野・山田らは意思相通じ、尾崎には殴打して暴力的な援助を与え、かつ、総括の間食事も与えないようにして、必死になつて革命運動に取組む気構えをおこさなければ、同人は共産主義化を遂げ革命戦士になり切ることはできないと判断し、森・坂口・吉野・山田らは同人を榛名山ベース内に起立させたうえ、手拳で尾崎の顔面を殴打し、そのあと起立したまま総括するよう命じたのに、同人はその後も疲労のため、ともすれば寝袋に入ろうとする気配を示したため、結局前同月三〇日これを立位後手で緊縛するという事態に立至つていたところ、被告人は、同月二九日任務を帯びて東京方面に赴いていたため、尾崎の殴打・緊縛には居合わせなかつたものの、同月三〇日ベースに帰りついて、尾崎が緊縛されているのに気付き、また前記加藤能敬らに対する総括状況から推して殴打されたことも察知したのであるが、もともと同人の敗北主義に非難の気持をもつていたところから、これをむしろ当然の措置と受取り、森・坂口・吉野・山田らのなした右処置を是認し、ここに同人に対し、暴力に訴えてでも革命戦士化を求めるべきものと意思相通じてこれに加わり、尾崎を緊縛し、食事も与えないまま放置し、翌三一日同人が通りかかつた永田にもたれかかるようにしたため、森・坂口・吉野・山田の四名が、尾崎を再び殴打あるいは足蹴りし始めるや、それに先立つ尾崎と森との応答を耳にし、尾崎が革命戦士としての自覚が全くないことをさらけ出し、恐怖感や寂寥感を訴えているのを聞き憤激の念をさらにたかめていたところから、被告人もまた、尾崎の水落付近を膝で四回位蹴るなどの暴行を加えるなどし、よつて、前同日、同ベース内において、食事も与えず長時間寒気きびしい山中に緊縛放置したうえ、殴打・足蹴りなどを加えて体力を消耗させた同人をして凍死するに至らせ、もつて共同して暴行を加え体力を極度に衰弱させて死に至らしめ、

(2)(イ) 森・永田・坂東・吉野・山田・岩田らと相謀り、昭和四七年一月一日未明ころ、榛名山ベース付近において、前同様の企図のもとに、右尾崎の死体から衣服をはぎ取り裸にして、これを同ベース北西方約九〇メートルの雑木林内の土中に埋没し、もつて共同して死体を遺棄し、

(ロ) 森・永田・坂口・坂東・寺岡・山田・吉野・岩田・青砥・山本保子らと相謀り、前同月五日夜ころ、右雑木林において、前同様の企図のもとに右尾崎の死体をさらに別の場所に遺棄するため、土中からその死体を取り出したうえ、手製担架に乗せてこれを群馬県群馬郡榛名町大字榛名山甲八四五番地先道路まで、さらに、自動車でこれを同郡倉渕村大字水沼字中尾一二塚二、八五四番地の一先道路まで運び、翌六日未明ころ同所付近の杉林内の土中にこれを埋没し、もつて共同して死体を遺棄し、

(四)  (進藤隆三郎関係)

(1) 赤軍派の新倉ベースに山岳アジト入りし、引続き両派の合体とともに榛名山ベースに移つてきた進藤隆三郎(昭和二五年二月一〇日生)に対しては、既に赤軍派幹部あるいは植垣・青砥より新倉ベースにおいて、党の資金を浪費し、また女性より金員を貢がせようとする不純な行為が多く、活動面では日和見主義的傾向が目立つなどルンペン・プロレタリアート的性格を追及されていたのであるが、同人はこれに対し明確な自己改革の方途を見出すことができず、右追及は榛名山ベースに移つてからも続けられ、昭和四七年一月一日未明ころより、森・坂東などから厳しく総括を求められるや、明確な態度表明のできなかつた進藤自ら、同日午前七時ころ緊縛を求める発言をするに至つたところから、森・坂東は永田・坂口にはかつた結果、進藤には真剣に総括して行こうとする態度がみられず、これに真剣な総括を求めるには暴力的な援助をする以外方法はなく、かような暴力により同人を死に至らせることになつてやむをえないと意思相通じたうえ森の口より暴力的援助を与えることを、居合わせた被告人のほか、寺林・杉崎・伊藤・中村・加藤倫教・同元久・山本順一・同保子・金子・大槻・行方・遠山らに告げるに至り、ここに被告人は右の者らと意思相通じて森の提案を了承し、進藤を暴行により死に至すことあるもやむをえないものとし、坂東により後手に緊縛され榛名山ベース内に起立させられている進藤に対し、森・坂口両名の殴打がなされたあと、寺林・杉崎・伊藤・中村・加藤倫教・同元久・大槻・遠山らのあと被告人は、森から腹部を狙うようにと指示されるに及んで、尾崎が殴打されて間もなく死んだ後でもあり、森に殺意さえ感じとつたがそれも革命軍創設のためにはやむをえないと考えたうえ、森・坂口・坂東・吉野らと共に、腹部さらに顔面を殴打し、同人に左肋骨骨折・胸腹部筋肉内出血・肝臓破裂・左眼部皮下出血の傷害を負わせたのち、さらに前同ベース付近の立木に緊縛し、よつて、前同日中に、進藤を前示肝臓破裂にもとづく失血により死亡するに至らしめ共同してこれを殺害し、

(2) 森・永田・坂口・坂東・寺岡・山田・吉野・岩田・青砥・山本保子らと相謀り、昭和四七年一月五日夜ころ、榛名山ベース東南方約一二〇メートルの雑木林において、前項記載のとおり死亡し、右雑木林内土中に埋没されていた右進藤の死体を、前同様の企図のもとにさらに別の場所に遺棄するため、土中からその死体を取り出したうえ、手製担架に乗せてこれを群馬県群馬郡榛名町大字榛名山甲八四五番地先道路まで、さらに自動車でこれを同郡倉渕村大字水沼字中尾一二塚二、八五四番地の一先道路まで運び、翌六日未明ころ、同所付近の杉林内にこれを埋没し、もつて共同して死体を遺棄し、

(五)  (山崎順関係)

赤軍派が新倉にアジトを設置していたころ、山岳アジト入りし、新党派の結成にともないこれに参加していた山崎順(昭和二五年一一月二五日生)に対し、昭和四七年一月一八日ころより、榛名山ベースにおいて森・永田から追及が始まり、これより先の昭和四七年一月一八日、寺岡を組織に対する裏切者であつて、総括して共産主義化を遂げうる余地の全くない者として、居合わせた組織構成員で死刑に処し、その生命を奪つたのであるが、その際、山崎は積極的な行動をとらなかつたとの追及がなされたのであるが、それに対する返答を、寺岡のもつ欠点を自分も有するよう考え、自分も殺されるのではないかと恐怖を覚えたためである旨答えたところから、森・永田の両名は坂口・坂東・吉野らと意見を交換したうえ、山崎には寺岡と同質の、組織よりも自分の立場を優先して考えるところがあり、また節操がなく党派から党派へと安易に乗り移る傾向があるので、寺岡の処刑事件のあつた後であるから、節操の乏しい利己主義者であるとすれば党派を捨てて脱走するおそれがあると判断した結果同月一九日ころより山崎に総括を求めることなつたところ、折しも同志連絡の任務を帯びて名古屋方面に赴いた岩田がそのまま逃走したことが同行した伊藤から森・永田らC・Cに報告されたため、ベースの警察による発見・逮捕を免がれるため、至急アジトの移動を行なう必要が生じてきたのであるが、その際山崎に逃走されることを懸念した森・永田・坂口・坂東・吉野らC・Cは永田の提案を入れ、その意思の有無を確認するため、前同日夕刻ナイフを正座している山崎につきつけたままで、その真意をさぐろうとしたが結局これを果せず、さりとて疑いを晴らすまでにも至らなかつたところから、とりあえず同人を座位後手に緊縛することにしたのであるが、その後山崎は周囲を見廻すなど逃走の機会を窺つているのではないかと思われるような態度をとつたり、さらにはC・Cに問われるまま、青砥あたりがやさしい言葉をかけてくれたので、同人が逃亡させてくれるのではないかと考えた旨発言をしたところから、遂に同月二〇日ころ森・永田らC・Cは同人には逃亡のおそれがあるものとの結論に達し、居合わせた構成員全員に集合するよう呼びかけるに至り、被告人もこれに応じ山崎の緊縛されている傍によつて来たのである。ところで被告人は、これより先の昭和四七年一月八日森らC・Cより東京に赴き赤軍派のシンパであつた奥沢修一を説得した山岳アジトに連れてくるよう指示を受け、これに従い奥沢にいわゆるオルグ活動をしていたのであるが、同人の性格等をみるうち、既に暴力的総括を受けて死亡した者と大差なく、山岳アジトに連れかえれば、いずれは総括にかかることになろうと考えられ、かつ、被告人は加藤能敬の死亡後は、暴力的総括にかける際、C・Cはむしろ被総括者を組織にとつて無用の者とみなし、完全な革命戦士に変貌しえたという、その可能性の極めてうすい事態が実現した場合はともかく、そうでない限りは、革命闘争に足手まといになる者として死に追いやろうとしていると考え始めており、ここに、これまで誤りはないと思つていたC・Cの指導に、総括にかけ死に追いやる可能性の極めてたかい者をオルグして山岳アジトに連れてこようとするような誤りを犯しているのではないかと疑念を持ち始めるに至つたのであるけれども、被告人にとつては革命左派そして新党派は、その闘争のすべてといいうるようなものであつて、これより脱退するということは、その当時到底考えられず、なやんだ挙句ともかく暴力的総括には反対である旨の意見を述べ、これを中止させるべきだとの結論を一応いだいて帰山しかけたのであるが、しかし、山における討論は、全員平等を建前としていたものの、実際の討論では論理力・知識量において圧倒的に優る森・永田が討論を独占している実態を想起するにつけ、これを論破することは、自らの力量からみて、絶対にありえないということではないが、不可能に近いと絶望的な気持となり始め、山岳のベースに近ずくにつれ、説得の決心はうすれ、結局ともかく自らこれ以外に革命への途はないものと思い定めて加入した組織と行くところまで行つてみようとの心境となり、榛名山ベースに立帰り、以後二月七日遂に組織と訣別の意を固め脱走するに至るまでの間、被総括者の死をほぼ確定的に認識しながら、それもやむをえないこととしてあえて暴力的総括に加わるのであるが、かような思いを懐いて被告人は呼びかけに応じ山崎の傍にきて、森・永田・坂口・坂東・吉野・植垣・寺林・青砥・中村・加藤倫教・金子・大槻・山本順一らとともにこれをとり囲み、前同日森の追及に対し、既に自己には死以外の途はないと覚悟を定めた山崎が、問われるまま逃亡の意思があつたこと、また他の構成員の悪口などを自棄的な口調で述べるのを聞き、一きり同人を殴打したあと森が突如山崎を死刑に処すべき旨の提案をするや総括であれ、死刑であれ、死亡することとなる点に差異はないとして、山崎をとり囲んだ他の者らとともに異議なく右提案を承認し、ここに同人を死に致すことを相謀り、植垣はアイスピック続いて登山ナイフで、青砥・森らは各登山ナイフでかわるがわる山崎の左胸部を突き刺したあと、被告人も森・坂東・吉野らとともに、さらし布をその頸部に巻きつけて両端を引き、よつて前同日夕刻榛名山ベース内において、山崎を頸部の圧迫による窒息によつて死亡するに至らしめて、共同してこれを殺害し、

(六)  (山本順一関係)

(1) 榛名山ベースに革命左派のみが生活していたところ単身山岳アジト入りし、その後一度任務を帯びて下山した際、妻保子に誕生間もない長女頼良まで伴つて山岳アジトに戻つてきていた山本順一(昭和一八年八月二四日生)に対し、昭和四七年一月二五日夜より、そのころ、新党派としては榛名山ベースを引き払つてあらたに群馬県沼田市上発知町字迦葉山丙三五〇番の一迦葉山国有林一四林班ほ小班に山岳アジト(以下(迦葉山ベースという)を建設し移転することとし、その作業用の仮泊場所としていた前同番地の迦葉山国有林一五林班い小班の二、通称タンク岩付近林道脇に設置したテント内において、まず坂東・吉野との合意したところによつて、坂口より追及が始まり、任務を帯びて下山しながらこれを果さず、かえて組織に充分な了解をえないまま妻子を榛名山ベースに連れて来るなどしたうえ、命じられて自動車運転に従事すると事故を頻発するなど、要するに同人には組織の指示を忠実かつ誠実に、全力を挙げて果そうとの真剣な態度がなく、新党派構成員としての資格がないといわざるをえないという事由で総括が求められたのであるが、山本順一はこの総括を求められた由縁さえ理解せず、事故を技術的な問題としてしか考えていないような返答に終始したため、坂口らは山本順一を翌二六日からは運転任務から外し、テントの内に正座して真剣に総括するよう求めたのであるが、同日夜山本順一に総括の結果えたものを糺そうとしたのに、同人はこれに解答らしいものさえ示すことができず、沈黙しがちであつたところから、遂に坂口において、同日榛名山ベースに赴き同所に残留していた森・永田に山本順一を総括にかけたことを報告し、右両名より厳しくこれを遂行するよう指示され、坂東・吉野にもこれを伝えていたところから、暴力的援助を与えて総括を求めるべきであるとのの判断に達し、坂東・吉野と共に手拳で正座している山本順一の顔面・腹部を数十回に亘つで激しく殴打し始めるのを、植垣・寺林・杉崎・伊藤・中村・加藤倫教・同元久・奥沢と共に、そのまわりに呼び集められて目撃するや、被告人は、C・Cらは山本順一をもつて総括し切つて完全な革命戦士となるという可能性のうすい事態となりえない限り、組織に無用の者として死に追いやろうとしているものと察知しながら、それもまたやむをえないものとその意を固め、その余の居合わせた構成員と相互に意思相通じ坂口の指示に従つて、他の構成員らとともに、手拳などで山本順一の顔面・腹部をそれぞれ数回づつ殴打した後逆海老型に緊縛し、雪上にシート一枚のみのテント内に放置し、さらに同月二九日夜ころ、坂口・植垣らが、その両手足を緊縛されたままの右山本を寝袋に押し入れ、迦葉山ベースまで運び、被告人において、坂東・吉野・伊藤らと共に同ベース床下の柱にロープでその身体を縛りつけ、同月三〇日午前三時ころまで酷寒の外気中にさらし続けるなどし、その間後約四日間を通じて同人に食事を与えず、よつて、そのころ同ベース床下において、前記暴行により妻保子の呼びかけにも、ただ涙を流し頭をすりつけつける仕種が精一杯の体力という有様にまで衰弱させた挙句、遂に山本順一を妻保子・子頼良をベースに残したまま前示三〇日午前三時ころベース床下で凍死するに至らしめて共同してこれを殺害し、

(2) 森・永田・植垣・吉野・青砥・加倫教・同元久・奥沢らと相謀り、昭和四七年二月二日夜ころ、迦葉山ベース付近において、前同様の企図のもとに、右山本の死体から衣服をはぎ取り裸にしたうえ、そりを使用するなどして、これを前記迦葉山国有林一七林班つ小班先林道まで運び降ろし、さらに自動車でこれを群馬県利根郡白沢村大字高平字小芝二、二五三番地先道路まで運び、翌三日未明ころ、同所付近の杉林内の土中にこれを埋没し、もつて共同して死体を遺棄し、

(七)  (金子みちよ関係)

(1) 小袖ベースにその設置当初ころより入山していた金子みちょ(昭和二三年二月七日生)に対し、昭和四七年一月二二日ころより榛名山ベースにおいて、森・永田から追及が始まり、金子がC・Cである吉野と夫婦関係にあり、そのうえ吉野の子供を身ごもつていたことからそれを利用して吉野を通じて新党派内における自己の地位を確立しようとし、これが成功しないとみるや、今度は他のC・Cへの接近を狙つて吉野との離別を口にし、組織に無用の混乱と負担をかけたこと、会計担当の立場を利用して組織の主婦きどりで構成員に口やかましく指示し、しかも相手によつてその態度を変えるうえ、自分自身は浪費する傾向があることなど、利己的なところが目立ち、組織内における自己の地位を有力なC・Cと性的に結びつくことによつて有利なものとしようとするなど女の革命家の段階より脱け出し革命家の女となろうとする意欲を全く示しておらず、要するに私利私欲を捨て革命に没頭すべき革命戦士としてまつたく不適格であるとの事由で総括が求められたのであるが、金子は一見これに真剣に努力しているよう装つているものの、内実は、真面目に総括しようとする姿勢がない旨、森・永田によつて榛名山ベース内において判断が下され、前同月二六日、真剣な命がけの総括をさせるため緊縛することとされて、右ベース内に居わせた山本保子・寺林の両名がその旨指示を受け、両者とも暴力的な総括を受ければ死亡するに至ることもあることを悟りつつ、真の革命戦士を組織員の構成にもつためには、かかる結果となることもやむをえないとして、これに応じ、森・永田と意思相通じ、金子をベース内の柱に縛りつけたことを、同日坂口を通じて、当時そのベース小屋の建設作業中であつた迦葉山ベース付近において聞知するや、被告人においても、金子が極めて可能性のうすい革命戦士化に成功しない限り死に追いやられることを認識しながら、これをやむをえないものとその意を固め、坂東・吉野・植垣・杉崎・伊藤・中村・加藤倫教・同元久らと共にこの措置を是認し、そのあと前同月二八日、森・永田が坂東・坂口にはかつて取り決めた、金子の逃亡を断念させるために、森・永田・坂口・坂東・青砥・奥沢・山本保子による手拳あるいは楕円状の針金をもつての殴打も緊縛後の当然の成行とみなし、同日夜から翌二九日未明にかけて、両手足を緊縛されたままの同女が、森・坂口・坂東・奥沢・山本保子らの手によつて寝袋に押し入れられて迦葉山ベースに運ばれてくるや、吉野・植垣とともに同月二九日夜、前同ベース床下の柱にロープでその身体を縛りつけて、酷寒の外気にさらし続け、あるいは同ベース内柱等にその身体を縛りつけておくなどし、同年二月四日までの間ほとんど食事を与えず、よつて右四日の朝ころ同ベース内において右暴行により衰弱した金子を凍死するに至らしめて、共同してこれを殺害し、

(2) 森・永田・坂口・坂東・吉野・植垣らと相謀り、昭和四七年二月四日夜ころ、迦葉山ベース付近において、前同様の企図のもとに、右金子の死体から衣服をはぎ取り裸にしたうえ、そりを使用するなどしてこれを前記迦葉山国有林一七班つ小班林道まで運び降ろし、さらに自動車でこれを群馬県利根郡白沢村大字高平字黒岩二、一九七番の一先道路まで運び、翌五日未明ころ、同所付近の杉林内の土中にこれを埋没し、もつて共同して死体を遺棄し、

(八)  (山田孝関係)

赤軍派が新倉にベースを設置していたころ山岳アジト入りし、両派の合体にともない榛名山ベースに移り、新党派結成とともにC・Cの地位にあつた山田孝(昭和一九年五月四日生)に対し、昭和四七年一月三一日ころより、森・永田・坂口・坂東・吉野らより迦葉山ベースにおいて追及が始まり、同人は常々理論に傾きすぎ、革命に対する実践的な意欲に欠けるところがあり、一般兵士の指導にも当るけれども、自らも銃をとつて闘い抜くことが何よりも要求される新党派のC・Cとしては、その有資格性に問題があるとみられれていたうえ元来官僚的なところがあり、C・Cである自己と兵士の間に距離を置きたがり、ベースにおいても余裕があるのに労力を費すことを厭い、雑用等はやろうとしないなどというところが見受けられたのであるが、これら問題点の表面化したところとして全員が一丸となつて革命戦士化の努力を命がけで行つている時点である前同月二四日に奥沢を連れて任務に当つていた際公衆浴場に入浴した事項がとりあげられ、かかる行動は警察に組織の存在、活動を知られる端緒をつくるものであるし、またシンパから自動車を入手する任務を帯びて上京しながら、これに全力を挙げて取組むということもせず、回避しようとしたことを総括すべきであるとされたのであるが、山田はその問題の所在点さえ把握していないと追及者をして感じさせる程度の回答しかなさず、あまつさえ奥沢のような革命戦士として未熟な者を入浴させたことを誤りとするような官僚的な態度を示すなどしたため同年二月一日ころに至つて前記C・Cら五名によつて、山田の官僚性を払拭するため、兵士による監視のもとに、実践への意欲をかきたてるため、薪拾いの労働をさせたうえ、その実践を踏まえて総括を求めることと定められ、森の口から被告人は、植垣・杉崎・寺林・青砥・伊藤・中村・加藤倫教・同元久・奥沢・山本保子らとともにその旨の説明を受け、これを了解したのであるが、さらにC・Cらが右監視下で労働する山田の態度に真摯なものが欠け、裏表のある作業態度があるとみて、結局山田も、これまでの被総括者と同様、暴力的援助を与えつつ、命がけの総括を求めるほかないと決意するに至り、これに従い同月三日夜山田をベース床に正座させたうえ、居合わせた被告人のほか、植垣・寺林・伊藤・中村・加藤倫教・同元久・山本保子らをまわりに呼び寄せ、C・Cらとともに山田をとりかこませて、まず森が山田の態度を罵倒しつつ、顔面を手拳で殴打し、続いて他のC・Cも永田を除き殴打に加わるのを目のあたりにするや、被告人は、山田も、その可能性の殆んどない革命戦士化を求められ、これを達成しえず、死に追いやられるものと認めつつ、やむをえないものと受取り、C・Cほか前記その余の者とともに意思相通じ、まず植垣・寺林・中村などが手拳で山田の顔面を数回ずつ殴打し、またこのころ榛名山ベースに赴いて後、その場に戻つてきた青砥・杉崎・奥沢もこの有様を目撃し、前記構成員と同様の意図を懐いてこれに加わり、坂東・吉野・植垣・青砥・寺林・加藤元久および被告人の手で逆海老型に縛りあげ、その後同ベース土間柱や床上に緊縛されるに至つた山田を、被告人においては、前同月七日午後命じられて榛名山ベースの焼毀作業に赴いての帰途、暴力的総括のとどまるところを知らぬ残虐性に、遂に組織に対する執着をすて、群馬県渋川市内で、同行の坂東らの目をかすめ組織より脱走することとした際にも、山田の官僚性・小心性・非実践性に対する反感をかねがね懐いた関係上、緊縛されたまま死に追いやられつつあるところを認容し、これを阻止しようとの意思さえもつことなく、事態を成行にまかせることにし、かくて同月七日夜ころ、寝袋に入れられて、ベースの移動にともない迦葉山ベースより群馬県確氷郡松井田町大字五料字中木四、四六〇番中木山国有林五林班い小班地内の林道脇空地に仮設置したテント内にそのまま約一月余に亘つて閉じ込められるという経過を辿つた右山田を、坂口・坂東・吉野・植垣・青砥・杉崎らがさらに同月一〇日未明ころ、前同町大字五料字中木四、四六〇番中木山国有林一一三林班い小班の妙義山中籠沢の洞穴前まで手製担架で運んだうえ、同所前に設置したテント内に同月一二日未明までそのまま放置しておくに至らしめこれらの間一度は解縛されたものの、前後約一〇日間を通じて構成員の監視下におかれ、食事も僅かしか与えられず、体力を消耗し尽し、よつてそのころ、右テント内において、右暴行により衰弱した山田を凍死するに至らしめて、共同してこれを殺害し、

(九)  (大槻節子関係)

森・永田・植垣・吉野・青砥・加藤倫教・同元久・奥沢らと相謀り、昭和四七年二月二日夜ころ、迦葉山ベース付近において、前同様の企図のもとに、同年一月三〇日ころ同ベース床下で死亡した大槻節子(昭和二三年二月六日生)の死体から衣服をはぎ取り裸にしたうえ、そりを使用するなどしてこれを前記迦葉山国有林一七林班つ小班先林道まで運び降ろし、さらに自動車でこれを群馬県利根郡白沢村大字高平字小芝二、二五三番地道路まで運び、翌三日未明ころ、同所付近の杉林立の土中にこれを埋没し、もつて共同して死体を遺棄し、

(一〇)  (爆発物取締罰則違反・火薬類取締罰法違反・銃砲刀剣類所持等取締法違反関係)

森・永田・坂口・坂東・吉野・植垣・寺林・青砥・伊藤・杉崎・加藤倫教・同元久・山本保子のほか、なお岩田・奥沢・中村さらに寺岡・山田・金子・大槻・山崎・山本順一らと相謀り

(1) 権力機関に直接的な打撃を与える攻撃を加える際使用する意図をもつて、昭和四七年一月上句ころから同年二月七日ころまでの間、榛名山ベースおよび迦葉山ベース内において、手製爆弾約八個、ダイナマイト二〇個、ならびにその使用に供すべき導火線四本、電気雷管一一六個および工業用雷管三個の器具を所持し、もつて、治安を妨げまたは人の身体財産を害する目的をもつて爆発物ならびにその使用に供すべき器具を所持し、

(2) 法定の除外事由がないのに、右期間右記載の各場所において、

(イ) 黒色火薬約八キログラム、散弾銃用実包約八〇〇発、ライフル銃用実包三〇数発、および拳銃用実包約五〇発を、

(ロ) ライフル銃一丁、拳銃一丁および散弾九丁を、

共同してそれぞれ所持し、

(一一)  (森林法違反関係)

森・永田・坂口・坂東・吉野・植垣・青砥・寺林・杉崎・伊藤・中村・奥沢・加藤倫教・同元久・山体保子さらに山田・山本順一らと相謀り、昭和四七年一月下旬ころから同年二月上旬ころまでの間、迦葉山ベース建設資材として使用するため、保安林の区域内である群馬県沼田市大字上発知字迦葉山の迦葉山国有林一四班ほ小班において、右森林が保安林でありうることを認識しつつ、あえてその産物である沼田営林署長蒲沼満管理にかかる杉九二本、檜五本およびイタヤ楓五本、合計一〇二本の立木(価格合計約六七、五七七円相当)を伐採し共同して窃取し、

(一二)  (有印公文書偽造)

吉野と相謀り、昭和四六年一一月二三日ころ、井川ベースにおいて、行使の目的で、ほしいままに、東京都公安委員会作成の同委員会の記名押印のある平野茂の普通自動車運転免許証の写真欄から、既に貼付してあつた加藤能敬の写真をはがし、同欄に被告人の写真を貼りつけ、もつて、前記平野茂の運転免許証を利用して、被告人が普通自動車の運転免許を有するかのような東京都公安委員会作成名義の普通自動車運転免許証一通(昭和四七年押六三号の一)を共同して偽造し、

たものである。

(証拠の標目)〈省略〉

(法令の適用)

被告人の判示第二の(一)の(1)、(二)の(1)、(四)(1)、(五)、(六)の(1)、(七)の(1)、(八)の各所為は、いずれも刑法一九九条、六〇条に、判示第二の(三)の(1)は、同法二〇五条一項、六〇条に、判示第二の(一)の(2)、(二)の(2)(イ)および(ロ)、(三)の(2)(イ)および(ロ)、(四)の(2)、(六)の(2)、(七)の(2)(九)の各所為は同法一九〇条、六〇条に、判示第二の(一〇)の(1)の所為は爆発物取締罰則三条、刑法六〇条に、判示第二の(一〇)の(2)(イ)の所為は火薬類取締法五九条二号(二一条)、刑法六〇条に、判示第二の(一〇)の(2)(ロ)の所為は銃砲刀剣類所持等取締法三一条の二第一号、三条一項、刑法六〇条に、判示第二の(一一)の所為は森林法一九八条、刑法六〇条、判示第二の(一二)の所為は刑法一五五条一項、六〇条に、各該当するところ、判示第二の(一〇)の(2)の(イ)および(ロ)の所為は一個の行為で二個の罪名にふれる場合であるから同法五四条一項前段、一〇条により重い判示第二の(一〇)の(2)(ロ)の銃砲刀剣類所持等取締法違反の罪の刑で処断することにし、判示第二の(一)の(1)、(二)の(1)、(四)の(1)、(五)、(六)の(1)、(七)の(1)、(八)の各罪については有期懲役刑を、判示第二の(一〇)の(1)、(2)の(ロ)の罪の刑で処断することになる(一〇)の(2)の(イ)(ロ)、(一一)の各罪については懲役刑を、いずれも各所定刑のうちよりそれぞれ選択し、以上は刑法四五条前段の併合罪なので、同法四七条本文、一〇条により犯情の最も重い判示第二の(五)の罪の刑に同法一四条の制限内で法定の加重をした刑期の範囲内で被告人を懲役一七年に処し、同法二一条を適用し、未決勾留日数中六〇〇日を右刑に算入することとし、押収してある運転免許証一通(昭和四七年押六三号の一)の偽造部分は判示(一二)の有印公文書偽造の犯罪行為によつて生じたもので、何人の所有をも許さないものであるから同法一九条一項三号、二項、四九条一項によつてこれを没収することにし、訴訟費用については刑事訴訟法一八一条一項但書によつて被告人に負担させないこととする。

よつて主文のとおり判決する。

(水野正男 谷川克 山本武久)

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